市民公開講座「こころとからだの意外な関係?」1

●「耳にバナナが」オリジナルレポート!

6月17日に行われた市民公開講座、
とってもためになったのでレポートします。

企画者やプログラムはこちらでご確認ください。

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こころとからだの関係を知るうえで

元パラリンピック日本代表選手や
実際に患者を診ているドクターたちの声は、
ぜひ知りたいところ。

主催の団体はざっくりいうと、日本心身医学会。

ご自身も日本心理学会認定心理士の資格を持つ
北海道医療大学の安彦善裕先生に教えていただき、
参加してきました。

安彦先生、ありがとうございました!


内容を知りたい方は「続きを読む」をクリック!




●プログラム1 パラリンピックメダリスト 心の戦い
アイススレッジホッケー元日本代表 永瀬 充 さん

恥ずかしながら私、永瀬さんのお名前は
この講演ではじめて知りましたが、

お話が 実 に す ば ら し か っ た 。


「こころとからだの意外な関係」というテーマで
パラのメダリストが講演者に選ばれたことはわかりますが、

世代や立場、身体コンディションに関係なく通じる
普遍的なことをおっしゃっていて、胸が熱くなりました。


ぜひ、みなさんにも知っていただきたくて
走り書きですが、以下にレポートします。


アイススレッジホッケー元日本代表 
永瀬 充(ながせ・みつる)さん 

現在は現役を引退し、北海道新聞社に所属。
後進の指導や障がい者スポーツの普及に努めておられます。


自分だけがつらいわけじゃなかった
“トリノの地獄”から
“リスペクト&コネクト”へ

1976年旭川出身の永瀬さんは、高校生のときに
神経の難病にかかり、歩行困難になったそうです。

この難病は10万人に一人といわれるもので

永瀬さんご自身も、
「同病の人に片手くらいしか会ったことがない」と
おっしゃっていました。


発病後、スポーツが大好きだった永瀬少年の暮らしは
一変します。

車椅子生活になったことに加えて、
難病ゆえに先が見えない病院通いの末に

「残念ですが、もうこれ以上は…(治療のすべがない)」

と主治医に言われたときは
ショックだったと振り返ります。

「いまは人と会うのが大好きですが、
 高校時代は感情の記憶がない。
 もしかすると、
 自分なりの防衛反応だったのかもしれません」


じきに転機は1995年に訪れました。

障がい者スポーツと出会い、
アイススレッジホッケー※を始めます。

※スレッジ(そり)にのってホッケーをする競技。
詳細は日本アイススレッジホッケー協会の説明をご覧ください。


持ち前の運動能力とご本人のとてつもないがんばり、
そしてパラがまだ普及していなかった時代ゆえの
チャンス到来もあったのでしょう、

永瀬さんは22歳でたちまちオリンピックの晴れ舞台へ。


98年 長野オリンピック 7カ国中5位
02年 ソルトレイク 6カ国中5位を経て、

2006年「トリノの悲劇」に見舞われます。


チームの主軸であり、
ゴールキーパーを務めていた永瀬さんは

3度目の挑戦であるメダルへのプレッシャーから

「ギターの弦が切れる寸前まで伸び切った極限状態」に
追い込まれます。

(防衛の要であるキーパーだったことも、
 きっと相当なプレッシャーになったと思われます)


そしてトリノの2回戦、
勝たなければいけないアメリカ戦に敗退。

ハーフタイムに入り、
指導陣も荒れ、怒号が飛び交うロッカールームで
永瀬さんはとうとう「弦が切れ」過呼吸におちいります。


「これが通常のスポーツ大会であれば
 “翌年”がんばればいいんですが、

 4年に一度のオリンピックに出場し続けるということは、
 卒論と就活をつねに繰り返すようなもの」

一般の私たちであれば一度で済む、
あの過酷なプレッシャーを
この人たちはオリンピックのたびに味わってきたのか。

そう思うと、現役を引退されたいま、
ほがらかに話されている目の前の永瀬さんに、
畏敬の念を抱かざるをえませんでした。


アメリカ戦後、永瀬さんはドクターストップもあり、
4試合目はハーフタイムを終えた時点で試合から離脱。

そこから選手村に3日間引きこもったといいます。
(日本チームは結果8カ国中5位に終わっています)

「当時のチームメイトと話すと、
 “ミツ(永瀬さん)はどうにかなっちゃうのかと思った”と
 言われます(笑)」


もう、先が見えない。どうしたらいいのかわからない…。

その地獄から永瀬さんを救ってくれたのは、
「仲間の存在」でした。

なかでも現役選手としてではなく、
次代を担う若手の指導を始めたことも

競技や競技をとりまく環境を客観的に見る機会になり、

徐々に傷を癒す手助けになりました。


「冷静になって考えると、
 自分だけがつらいわけじゃなかった。

 みんなが傷を負っていた。

 それがわかると、
 怒りや悲しみが少しずつ小さくなっていきました」



そしてトリノから4年後の2010年、

一度はもう氷上には上がるまいと思っていた永瀬さんは
ふたたび、バンクーバーでゴールを守っていました。

このときのチームスローガンは
「Respect & Connect」。

互いを敬い、つながりあう。

指導陣も選手もこころがひとつになれる環境を
皆でつくりあげていったといいます。
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(講演中の永瀬さん。背番号は39番。チームの大黒柱でした)


失意から始めた競技人生も早15年、
当時34歳だった永瀬さんは

「トリノの地獄」から復活し、
アスリートとして心身ともに円熟期を迎えておられたのでしょう。

「よくスポーツ選手が“ゾーン”に入るといいますが
 私も相手の選手のプレイがスローモーションのように見えた。
 心がとてもおだやかでした」


結果、強国カナダ戦を勝ちぬき、
永瀬さん率いる日本チームは見事、銀メダルに輝いたのです。

これ、会場で見せていただいた銀メダルです!ズッシリ!
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(参加国は8カ国、金メダルはアメリカ、銅メダルはノルウェーでした)


しかも驚くべきことに、
カナダ戦で永瀬さんが止めたシュートはなんと19本!

「人生最高のプレイでした」


帰国後「おめでとう」よりも
「ありがとう」が心に響いたのも、

「選手や関係者だけでなく、
 応援してくださったみなさんとも
 一緒に頑張れたという気持ちになれた」から。

メダルの重さが心地よい凱旋となりました。


2015年に現役を引退した永瀬さんは、現在、
北海道新聞パラスポーツアドバイザーに就任。

道内の障がい者スポーツの普及に尽力しています。


「(自分が罹患した)病気を治す未来はないけれど
 スポーツをやりたいとか、仲間を増やしたいといった
 思い描いた夢を追うことはできる。

 自分にできることをせいいっぱいがんばりたい」

という真正面から未来を見据えたことばが、
深く深く心にしみました。


プログラム1のレポート、ここで終わります。


プログラム2と3のレポートはこちらから!

by miminibanana | 2017-07-12 11:22 | レポート | Comments(0)